あたしは死ぬまで、この消えない傷と背中の刺青と共に生きていく
初めて手首に刃を滑らせたのは、19歳になったばかりの頃でした。
何故あの時、手首を切ろうと思ったのかはわかりません。
確かなのは、「生きること」にギリギリまで追い詰められていたということ。
あたしは疲れていたんだと思います。
慣れない仕事にも家族にも友達にも過去にも・・・。

リストカットの多くの原因として、母親との関係が挙げられます。
あたしも、母親との関係が原因でした。
幼い頃から、あたしにとって母親は「怖い存在」でしかなく、いつも顔色を窺い、機嫌を取りながら生きてきました。
もちろん優しい時もありましたが、機嫌の悪い時の方が断然に多く、そんな時は理由もなく怒鳴られ、殴られ、無視をされました。
「娘とは性格が合わないから殺そうかと思った」という母親の発言を偶然聞いてしまった時は愕然としましたが、母親から愛されていないことは幼いながらに理解していたので、幸い大きなショックはありませんでした。
あたしは幼い頃から誉められた記憶がほとんどなく、いつも叱られていたように思います。
今思えば、あたしは彼女にとって初めての子供だったので、育児ノイローゼ気味だったのかもしれません。
そんな事を知らないあたしは、いつも「良い子」であり続けようと必死でした。
だけど、あたしは母親の思う「良い子」にはなれなかったのです。
そんな母親との危うい関係が19年間続き、就職してから更に母親の態度は悪化して、無視が続きました。
後に母親は「自立していく娘が許せなかった」と言っています。
母親もまた、病んでいたのかもしれません。

いつ怒鳴り込んでくるかわからない母親に、いつも怯えていました。
家にも、自分の部屋にも居場所がありませんでした。
逃げるように外へ出れば、鳴り響く携帯電話。そして帰宅要請。
母親の過干渉に自由というものがまるでありませんでした。
あたしは疲れて果てていました。

愛されたい。抱き締めて欲しい。・・・だけど、それが叶わない。
あたしは母親の関心を引く為に、手首を切りました。
追い詰められたあたしの最後の手段でした。

今のあたしが見たら笑ってしまうくらいの浅い傷。
錆びたピンク色の剃刀は、搾らなければ血が出ない程度の傷しか残してはくれませんでした。
それでも、とても怖かったことを覚えています。
全身から汗が噴き出して、身体が異常なくらい震えました。
座っていたイスがガタガタを音を立てて揺れていました。

――手首を切るということは、死ぬということ――

リストカットについて、ましてや心の病気について無知だったあたしはそう思っていました。
いけないことをしている。やってはいけないことをしている。
だけど、もう止めることは出来ない。
あたしは錆びた剃刀をもう一度手首に当てました。
目を閉じて、深呼吸を繰り返して、心の中で10秒数えました。

1・・・2・・・3・・・・・・10!!

全身が総毛立ちました。
目を開けると手首から、じんわり・・・と赤い血が滲み出ました。
さっきより深い。だけど、どれもこれも猫に引っ掻かれたような蚯蚓腫れのようなもの。
だけど心がスーっと軽くなっていって、目から涙が零れました。久しぶりの涙でした。
そして、久しぶりに笑うことが出来ました。
手首から流れる血が、痛む手首が、何故かとても嬉しかったのです。
ヒリヒリと痛む傷は、あたしをワクワクさせてくれました。
まるで初めてピアスを開けた時のように、ドキドキしていました。
その夜、あたしは誰にも言えない秘密を抱えて眠ったのです。

あたしのリストカットは徐々にエスカレートしていきました。
手首の傷が癒えると、どうしようもなく不安に駆られ、再び傷を作ってしまうのです。
傷が消えないようにと、皮膚を軽く切るだけだったリストカットがだんだん深くなっていきました。
手首を切ると、鉛のように重い身体が軽くなるのです。心の中のモヤモヤが晴れるのです。
血が流れていく感覚が心地良くて、あたしは毎日のように手首を切っていました。
だけど、母親は気付きませんでした。隠してもいない手首の傷に気付くことはありませんでした。
それは、あたしを見ていない証拠・・・。
手首を切れば、あたしに関心を向けてくれると思っていたあたしが浅はかでした。

母親があたしの手首の傷に気付いたのは、あたしが初めてパニック発作を起こした時。
どうしてこんな事をするの!?と母親はあたしを怒りました。
怒るだけで、理由は聞いてくれませんでした。傷の意味を考えようともしてくれませんでした。
切る度に両親とは喧嘩になりました。
切ってはいけないと何度も何度も言われました。
感情的になって説得してきたり、時には優しく諭してきたり、あらゆる方法でリストカットを止めさせようとしました。
だけど、あたしは止められなかった。
それどころか、両親に当て付けるようにリストカットをするようになりました。
左手首だけでは飽き足らず、腕も切りました。
切る場所がなくなると、右手首や腕、足も切り刻みました。
あたしはリストカットをすることでしか、自分をコントロールすることが出来なくなっていました。
不安、恐怖、怒り・・・全てを手首にぶつけることで、心の安定を保っていました。
皮膚の再生を幾度となく妨げてきたあたしの腕には、ボロボロという表現が一番似合っていると思います。

とにかく切らなければ、不安で落ち着かない。
苛々したり、死にたくなったり、とにかく心の中も頭の中もグチャグチャになってしまいました。
自分は壊れてしまうのではないか、狂ってしまうのではないか。そんな恐怖に駆られて、何度発狂したかわかりません。
それが切るだけで、手首を切るだけで、全て解決してしまうのです。
例えそれが一時的なものだとしても、不安も苛々も寂しさも、何もかも忘れることが出来るのです。
そしてあたしにとってリストカットは、自殺衝動を和らげる効果がありました。
どんな薬よりも良く効く精神安定剤のようなものだったのです。
「生きる為のリストカット」。まさにそれでした。

痛みは不思議とありませんでした。
それだけ、手首の傷よりも心の傷の方が痛かったんだと思います。

上手に伝えられない「辛い気持ち」に気付いて欲しくて、切りました。
手首を嫌いな人に例えて、滅茶苦茶に切り刻みました。
手首の痛みで不安や恐怖を誤魔化し、現実逃避をしました。
頑張れない自分に罰を与えたり、逆に頑張った自分にご褒美として切ることもありました。
特に何もなく、暇だから・・・という理由だけで切った時もありました。

リストカットは依存症です。
あたしは切ることを止められなくなっていました。

切りたい・・・
切りたくない・・・
切りたい・・・
切りたくない・・・
切りたい・・・
切りたい・・・
切りたい・・・


心の葛藤は凄まじいものでした。
心の中は、とんでもない矛盾でいっぱいで、自分でも何が何だかわからなくなるくらいでした。
こんなに頑張ってる。手首を切ってまで、頑張っている。
それなのに「切るな」という両親や医者に反発心が沸きました。

どうして切っちゃいけないの?
あたしはあたしの手首を傷付けているだけで、誰にも迷惑はかけていない!!

生きたい。ちゃんと活きたい。
生きる為のリストカットを否定されれば、あたしは死ぬしかないのです。
そんな思いで作った同盟には、正式な人数はわかりませんが同じ思いを抱えて苦しんでいる人達が沢山参加してくれています。
リストカットを始めてまだ数ヶ月の人、もう何年も切り続けている人。切る理由も様々で、本当に色々な人が居ます。

気が付くと、あたし自身もリストカットを始めて4年が経っていました。
リストカット写真も100枚を超え、削除してしまった写真も加えれば200枚はあったかと思います。
あたしは母親に受け入れてもらうことで、少しずつリストカットの回数が減っていきました。
一生止めることは出来ないだろうと思っていたリストカットを止める努力をするようにもなりました。
長いのか、短いのか、そこに至るまで4年という年月がかかりました。
ただ「辛かったね」と抱き締めてもらいたかっただけなのに、あたしはとんでもない遠回りをして此処まで辿り着きました。

あたしはリストカットをしていたことを後悔していません。
確かにこの腕の傷は社会的に不利です。半袖も着れません。理解のない人々に白い目で見られたり、罵倒されることもあるでしょう。
だけどリストカットは、あたしに両親の愛を教えてくれた。その代償だと思えば、この傷は誇らしく、愛おしい。

でもこのままではいけない。

そこで、あたしは背中に刺青を彫りました。
「切らない」という意思を背中の刺青に託しました。
少しずつでもいいから切らずに生きていけるようになりたい。



STOP WRISTCUT DECLARTION...



・・・リストカット経験者として、また現役リストカッターとして伝えたいこと・・・

リストカットしている人が身近に居たら、しっかり抱き締めてあげて下さい。
大好きだよ、愛してるよって全身で伝えてあげて下さい。
それだけで、あたし達は精神的にとても安定することが出来るんです。



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